
特集 『袴田巌さんの再審を求める会』事務局より 1
『袴田巌さんの再審を求める会』が誕生した
平野 雄三(求める会 代表)
2005年3月19日付けで「袴田事件の報道を収集し配布する会」(以後「配布する会」と略称する)は、発展的に「袴田巌さんの再審を求める会」へ全面的に移行する。単なる名称の変更にとどまらず、特別抗告審(最高裁)で再審の開始を求めるために、活動を集中させることが最大の目的である。
昨春より「配布する会」10年間の活動を振り返る作業を始めた。昨年8月、東京高裁が再審請求を棄却決定したことを踏まえて、総括活動を9〜10月に行い、私個人の名義で、「特別抗告審(最高裁)に勝利しよう!」と題した小文(A4版1頁)を「配布する会/第125回配布2004・10・26」に発表した。「袴田巌さんを救援する清水・静岡市民の会」の機関紙「無実/第7号2004年11月30日」にも、会員の投稿という形で掲載されたので、ご覧になった方が多いと思う。
その骨子は「弁護団も支援者もオープンな意見を闘わせる関係を作ろう」というもので、「オープンな意見を闘わせるということは、足を引っ張り合うことではなく、当事者の利益(再審・無罪を勝ち取ること)を最優先にして厳しい議論をすることである。これに耐えてこそ"難敵"の最高裁から勝利を勝ち取ることができると思う)と結んでいる。これは、私からの提案であり、特別抗告審(最高裁)を闘う決意の表明である。
これまでの「配布する会」は、再審支援を担う組織としては何とも奇妙な名称であった。1994年の発足当時、不幸にも「袴田さん支援組織」から突然、放り出されてしまい、何の準備もできない困難な出発の反映であった。そして奇妙な名称の如く「過渡期」と自覚した活動スタイルをとった。それにしても「過渡期」が10年を越えてしまうとは、自分たちの誰もが予想できなかった。「袴田巌さんの再審を求める会」は、これと比べると「満を持して」とは言い難いが、「配布する会」の総括に長期間を掛けた、準備にはある程度の余裕を持てた誕生である。
今こそ、特別抗告審(最高裁)に勝利するために、総括を反映させる新たな活動が必要である。「袴田巌さんの再審を求める会」は、こうして生まれた。袴田巌さんのご家族と袴田事件弁護団との信頼関係を深め、連携を強めて、全国の支援者とも連帯して、袴田巌さんの再審・無罪を早期に実現させたいと願っている。
また、これまで「配布する会」として培ってきた、他の再審事件、冤罪事件、死刑廃止、獄中処遇の改革等の活動との連帯をも、「袴田巌さんの再審を求める会」の重要な課題として取り組んで行きたい。(2005年3月10日、記す)
私が袴田えん罪事件に最初にかかわってから、今年で19年目に突入する。
当時19才、熱狂的なボクシングファンだった私は、著名なボクシング評論家である郡司信夫さんが雑誌に掲載した袴田事件の記事を目にし、軽い気持ちで支援者の会合に顔を出すことにした。
記事には、「ボクシング協会が全力で支援している」なんて書いてあったものだから、私はあこがれのボクサー達が多数駆けつけているものと思い込んでいた。しかし実際は、10人程度の得体の知れない(失礼!)人たちが、狭い会場で長机を囲み、淡々と会議を続けるだけだった。
聞けば、かつては盛んだったボクシング界の支援もすっかり下火になり、会議に参加する人など皆無とのこと。
正直、私はそこに行ったことを後悔したし、チャンスがあればいつでも抜け出そうと思っていた。それが袴田えん罪事件との最初の出会いだった。
それが19年。当時の自分には決して想像できなかったが、もう人生の半分、袴田えん罪事件にかかわってきたことになる。
最初は法律用語のいろはも全く解さなかった私だが、当時の裁判資料や新聞報道に悪戦苦闘しながらひと通り目を通すうちに、この事件がまぎれもない"えん罪事件"であることを確信していった。以来、自分なりに袴田さんの再審実現のために力を尽くしてきたつもりである。
しかし今だ袴田さんを取り戻すことができていない。振り返ると、なんともやるせない思いになる。
他の活動なら長く続けていることに何らかの価値があるのかもしれないが、"死刑囚(明日にも執行があるかもしれない)"のえん罪支援にかかわるということは、一日もはやい再審・無罪を勝ち取ること(その身柄を取り返すこと)以外はすべて敗北なのだ。"長くかかわっている"ことになんて、何の誇りも見い出せない。
この19年間で特に忘れられない瞬間がふたつある。1994年8月9日、静岡地裁における再審請求棄却決定と、2004年8月27日、東京高裁の即時抗告棄却決定の時である。いずれも裁判所前に陣取る支援者のひとりとして、その非情な瞬間を目の当たりにした。
11年前の静岡地裁。決定の瞬間、怒号渦巻く周囲の喧騒の中、実は意外に冷めた自分自身を感じていた。『再審棄却』の言葉があまり現実的に感じられなかったのだ。
当時支援者の間では『免田、財田川、松山、島田』の次は『袴田』以外にない、と言われていた。
「こんな明らかなえん罪が、いつまでも黙認されるはずはない。次こそはきっといい結果が得られるはずさ」心のどこかにそうした"楽観"があった。
しかし10年の歳月を経た昨年8月の高裁棄却決定を、楽観的に受け入れる余裕はもはや全くない。
木で鼻をくくったような東京高裁の判決文を読むたびに、確実に老い、精神を蝕まれている獄中の袴田巌さんの姿が思い起こされ、涙がにじんでくる。
そして袴田さんに残された時間や、反動的ともいえる司法界の現状を考えると、それまでのやり方を変えなければ、決して袴田さんを救い出せないことを、遅まきながら痛感した。
さて、『袴田巌さんの再審を求める会』である。
私も発足当時から世話人を務めてきた『袴田事件の報道を収集し配布する会』は、約10年の活動の間、数々の実績を残してきた。特に代表されるのが、事件当時の報道をまとめた、『袴田事件新聞報道資料集』の編纂である。これには弁護団をはじめ、数多くの支援者から賞賛をいただいた。
しかし名称が示すとおり、会の主たる目的は、あくまで"新聞等の報道の収集、配布"にあった。袴田さんの再審を実現するに十分な体制であったとは、到底いい難かった。
東京高裁の棄却決定を受けて、配布する会の定例会では約半年間、最高裁で勝利をするために、私たちはどうするべきか、真剣に議論を進めてきた。方向性をめぐって世話人の間の意見が分かれることもしばしばあった。しかしさまざまなキャリアや思考を持つ世話人のみんなに共通していたのは、「自分たちが変わらなければ、袴田さんの再審を勝ち取ることはできない」の一念だった。
このたび『袴田巌さんの再審を求める会』として船出できるのも、事務局員みんなのそうした熱意の賜物だと思っている。もちろん、『求める会』の真価が問われるのは、今後の活動である。『求める会』に求められるさまざまな意見を取り入れながら、袴田さんの再審開始に向けて全力で取り組んでいく。
19年間、袴田さんは私にファイティングポーズを構え続けてきた。
私は袴田さんと直接会ったことがない。袴田さんは私が生まれる前年に事件に巻き込まれ、逮捕された。私が知る袴田さんとは、1961年4月、フィリピンのマニラで遠征試合を行った時に撮影された、ファイティングポーズをとる、あの写真だけなのだ。
袴田さんは今も闘い続けている。司法界の不正義と。死との恐怖と。そして、私と。
私も、袴田さんがその堅く握った拳を解き、やさしく手を差し伸べる日が来ることを信じ、闘いに臨む覚悟だ。
『袴田巌さんの再審を求める会』という名称への個人的思い
求める会事務局 石井
新しい会の名称「袴田 巌さんの再審を求める会」は準備会での話し会いの中から生まれたものなのですが、私自身あとで考えてみて自分の考えにとてもマッチしている名称であることに気がつきました。
無実だ、無罪だと限られた人々だけで叫んでいても一向に裁判所までその声は届かず、昨年の高裁決定の後も三日もすれば人々の記憶の片隅に消えてゆく程度にしか袴田さんの40年近くに及ぶ叫びは世間の人々に伝わっていないのが現実です。世論を喚起するといってもどれほどの事ができるのかと思ってしまう訳ですが、2009年にも始まろうとしている「裁判員制度」や司法改革への取り組みにからめ「過去の杜撰な判決が放置されたままで本物の改革などできるはずがない」と思う常識的な感覚を持って、袴田さんが無実であろうが無かろうが、予断と偏見に満ち、事実認定において多数の問題が指摘されている捜査・裁判を絶対に見直すべきだという最大公約数的世論を再審請求の大きな後ろ盾として作らなくてはならないでしょう。そのことを明快に表現している名称として「袴田 巌さんの再審を求める会」はとてもいい名前と思っています。
「袴田えん罪事件」と「味噌会社専務一家四人殺人・放火事件」
長く袴田さんの支援に関わっている方々やマスコミの多くは「みそ会社専務一家四人殺人・放火事件」のことをあまり抵抗もなく「袴田事件」と表現しているように思います。私はかなり以前からこの読み替えに違和感を持っていましたが、支援の活動に具体的に少し加わるようになって益々その感を強く持つようになりました。つまらぬこだわりで袴田さん再審支援にとってそんな事はどうでもいい事と思われる方も多いかと思いますが、新しい会を作って支援活動の発展を期する機会によせて、あえて書かせていただきます。
旧清水市横砂の味噌会社専務宅では四人もの人間が刃物でメッタ刺しにされたうえ火をはなたれて家ごと焼き殺されるという凄惨な事件が発生したのでありました。この事件の容疑者として逮捕された袴田巌さんはかなり早い時期から「犯人は袴田以外にないという信念をもった」警察署員らによって拷問のごとき取調べをうけたのでした。そして映画のセリフではありませんが「事件は現場で起きているんじゃないんだ!・・」まさに清水警察署の取調室で新たな事件は起きたのでした。これが世にいう「袴田えん罪事件」であります。
「袴田えん罪事件」と「味噌会社専務一家四人殺人・放火事件」を強引に結ぶストーリーは自分の身に起こった事と考えれば、誰もが身の毛もよだつ恐ろしさです。「袴田えん罪事件」の主犯格とおぼしき刑事は拷問のごとき取調べをしたことなどまるで一片の罪悪感すらもっていません。
むしろ「正義」を実現するため、凶悪殺人犯と決めた容疑者を確実に有罪にするため、確信を持って自らの職務に忠実に従ったことを誇らしくすら考えているのです。
だからこそ「袴田容疑者」と「殺人・放火事件」を結ぶ合理的な物証はほとんど無かったという点を「味噌会社専務一家四人殺人・放火事件」の事件現場の証拠品(遺体の状況・解剖所見、クリ小刀、雨ガッパ、草履、シェルの4リットル缶などなど)をもっと追求し、さらなる証拠開示を求めることで明確に暴いてゆけないのでしょうか。ここに力点をおいて確定判決の証拠構造を覆せないのでしょうか。犯行ストーリーに無理・矛盾があるのは当然だと裁判官は言われるけれど、決定的に矛盾している事を無視しているような裁判所の論法をもっと追及できないのでしょうか。これまでの弁護団のご努力をさらに発展させるためにも、全般的な戦略の見直し・再構築をと、つい素人的には考えてしまいます。これからの学習会や集まりのなかで議論が深められたらと希望しています。
今後の活動への提案など
新しい人に袴田さんの無実をこれから理解してもらうためには、すでに確信を持っている人は自重して臨む必要があると思います。
@無実であることは自明のことであるかのような押し付けがましい言い方は慎む。
A支援者や弁護人がまとめた冊子・原稿等はあくまでもその人の思考回路を通しての理解であるので、それをもって無実の確信を持ってもらうのは本物の確信になりえない場合がままある。
Bすでに確信をもった人は、どのようにその確信を持ちえたかを丁寧に根拠を示して説明できるとよい。このような支援活動や市民運動に関わってきた人々だけに通用するような"単語""略語""言い回し"を使わないように注意する。
C提供できる基礎資料(裁判記録・解説文章・書籍・マスメディアの報道・新聞資料等)をできるだけ紹介して、自分自身でそれらの資料を確認しながら理解を深めようとする人への協力をする。
D訴訟手続きその他の法的知識も解りやすくまとめて解説した資料があるとよい。
E事件の中身・確定判決のデタラメ度をわかりやすくまとめてみる。大胆にウィットとユーモア(権力批判はブラックユーモアでしょうが)をちりばめて。(例えば"消されたアリバイ"、"奇跡のくり小刀"、"静かに控え室でお待ち下さい"、"裏木戸の怪・マジックドア編"、"忍術・水道管わたり"などなど――漫画で描く殺人・放火事件の'真相?')
F弁護団ができること、支援者ができること、両者が協力してできること、それなりに役割分担ができ、もっと組織的に協力できる関係が作れたらと思います。
*これまでの「袴田事件の報道を収集し配布する会」の活動で蓄積されてきたものや「袴田 巌さんを救援する清水・静岡市民の会」のみなさんの活動で実現されているものもあります。今後も大いに協力して、お互いの活動の成果は積極的に利用しあって行けたらと思います。
少しでも袴田さんの力に!
西浦 正弘(求める会事務局)
私が、「配布する会」の活動に関わるようになってから、8年ほどの月日が過ぎました。
昨年の8月には、東京高裁の棄却決定が出され、次の最高裁の決定が出るまでの残された時間は、あまり多くは無いかも知れません。
私達は、法律の専門家ではありませんが、私達に出来る事、少しでも袴田巌さんの力になれる事があれば、微力ではありますが取り組んで行きたいと思っています。
一日も早く袴田さんを救出できるように!
江口 良子(求める会事務局)
1976年、袴田さんの裁判が高裁で棄却された新聞記事を見て、袴田さんに手紙を出したことから、袴田さんと文通が始まり、あれからもう30年近くが経とうとしています。当時はおたがいに獄中のえん罪事件の被告でした。
この30年の間に、私の方は、1979年に保釈となり、6年後に無罪確定。そして国家賠償請求裁判に取り組み、昨年11月には最高裁の上告棄却によって、それも終了しました。長い年月がかかりましたが、被告でもなくなり、原告でもなくなったという立場となった訳ですけれど、袴田さんのほうは今だ、無実が晴らせないまま死刑囚とされ、獄中にあります。
袴田さんの無実が晴らせない無念さ、そして精神を病むほどの苦しみの重圧が、私にはとてもよく判る思いとなっています。だからこそ、『袴田事件の報道を収集し配布する会』の会員となり、"陰ながらの応援"をしてきましたが、3年数ヶ月前から本格的に支援者としての活動に取組みを開始することになりました。一日も早く袴田さんを救出できるように、今後も再審実現に向けて頑張っていきたいと思います。
『袴田巌さんの再審を求める会』として、新たに出発しようとしている現在、まだまだ私たちは力不足です。より多くの方々の参加、協力をお願いしたい気持ちでいっぱいです。
袴田巌さんと
武田 敦史(求める会事務局)
袴田巌さんは、1936年生まれで、今年の3月10日に69歳になった。私は彼より一つ上で、10月には70歳になる。一つ違いでも、同時代を同年代を生きてきた。私と彼を重ねて言えば、老いて来たということである。小川秀世弁護士が、『袴田事件』(山本徹美著、新風舎文庫)の解説に書いているように、「残された時間はわずかである」は実感として切に思う。
彼とは、一度も逢って話をしたこともない。顔を合わせたこともない。私の知る彼の像は、ズボンの装着実験の写真は別にして、リング上で拳をかためた、ボクシングスタイルの写真の印象のまま今日に来ている。最初の袴田事件をまとめたパンフレットの茶色の表紙写真が、まさにセピア色という表現のままなのだ。
私より1年後に来る彼の年齢の節目。60歳の還暦はどのように過ごしているのだろうか、65歳には、彼の年金はどのようになっているかとか、配布する会の新年会の自己紹介の折にふれてきた。
気にかかるのは健康のことである。老いれば、身体のどこかしこが悪くなる。耳は、眼は、歯は、健康診断はと、私自身、身近な年齢の人と重ねて思う。それでなくても、拘束されていれば身体は蝕むとも言われている。最近の報道では、医療制度の改善が行われるとあるが、実際はどうなのであろうか。
1980年11月19日の最高裁判決は、「本件上告を棄却する」と一瞬であった。彼は現在も、この一瞬の言葉と時間の中を生きている。この拘束を解かないかぎり、彼は彼でないとの思いは強い。
最高裁判決で死刑確定したその日のうちに、高杉晋吾さんを中心に相談し、支援の体制を結成してきたが、名称は変わっても、一貫して袴田巌さんの再審を求め、無実を勝ち取る思いに変わりはない。