3・18 袴田巌さんの再審を求める集い
| 『巌さんの無実を信じつづけて40年 〜家族、支援者、弁護士とともに』 |
袴田秀子さん、小川秀世弁護士、村崎修弁護士座談会 全発言録
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| 座談会を行う(左から)村崎修弁護士、小川秀世弁護士、袴田秀子さん | 袴田秀子さん |
3月18日(土)、東京シビックホールで、『袴田巌さんの再審を求める集い』が開催されました。当日は多くの参加者が集まり、事件発生40年の今年こそ、袴田さんの再審開始に向けた大きな一歩を記そうという熱気に満ち溢れた集会となりました。
ドキュメンタリー『烙印』を制作した佐藤正樹さん(テレビ静岡)の講演をはじめ、各界の著名人が袴田巌さんの再審を訴えましたが、中でも好評だったのが、巌さんの実姉、秀子さんと小川、村崎両弁護士が行った座談会『巌さんの無実を信じて40年』でした。
巌さんの人となりや、事件の知られざる真相に迫った座談会の全発言を、ここに掲載します。
1 巌さんの人柄、事件に巻き込まれるまでの暮らし振りについて
小川秀世弁護士(以下 小川)
今日の集会のサブタイトルは、『袴田事件の原点に立ち返って』ということですが、事件発生以来40年間、巌さんの無実を訴え、闘ってこられた袴田秀子さんの貴重なお話を伺い、これからの支援や弁護活動の参考になるようなお話を聞けたらと思っております。
まずはじめに、袴田巌さんの人となりについて伺いたいのですが、巌さんは昭和11年3月10日生まれですから、今年で70歳ということになります。秀子さんは巌さんの実姉ですけれども、ご兄弟は何人いらしたのですか?
袴田秀子さん(以下 秀子)
私と巌を含めて6人兄弟でした。
小川 6人兄弟のうち、巌さんは何番目ですか?
秀子 一番下です。
小川 それで秀子さんは?
秀子 そのすぐ上です。
小川 そういう意味では、巌さんと秀子さんは兄弟の中でも、小さいときから一番近い関係だったのですか?
秀子 そうですね。
小川 秀子さんと巌さんの関係というのは、小さいころどんな感じだったんでしょうか。
秀子 巌はおとなしい子で、私はお転婆だったので、ちょうど親分と子分みたいなものでした(笑)。
小川 えっ、親分と子分ですか?(笑) 巌さんはその後プロボクサーになったくらいですから、性格的に非常に闘争心が強いとか、そういうことはなかったのですか?
秀子 小さいときはかわいらしくて、本当におとなしい子でした。闘争心なんてなかったですね。
小川 ボクシングを始めたきっかけですが、もともと巌さんはスポーツは好きだったのですか?
秀子 スポーツは大変好きでしたね。最初は柔道を始めたようですが、そのあとにボクシングをやったようです。
小川 ボクシングを始められたのはいつごろのことですか?
秀子 働くようになってから、夜ジムに通い始めたようです。
小川 はじめはアマチュアだったそうですが、国体にも出られたとか。
秀子 ええ、昭和33年ごろ、地元の浜松で国体が開かれたときに代表で選ばれました。
小川 秀子さんも実際に会場に行かれたのですか?
秀子 ええ。試合会場が私の勤め先のすぐそばでしたので、ちょっと時間を割いて行きましたね。
小川 試合会場はどんな場所だったのですか?
秀子 今は公園になっていますが、市役所の近くに古橋記念プールというのがあって、その水を抜いた上にリングを張って試合をしていました。
小川 プールの観客席からだと見下ろす感じになりますね。
秀子 ええ。私は上から見ていました。巌がスリップダウンしたときに、つい興奮して「頑張れっ!」って大きな声を出したのを覚えています(笑)。
小川 勝負はどうだったのですか?
秀子 たぶん負けたんじゃないかと思いますけれども(笑)。
小川 その後プロボクサーになり、日本フェザー級6位にランクされるなど活躍されたわけですね。
ボクシングをやめられてからの話ですが、巌さんは一時期キャバレーに勤められて、その後飲食店を奥さんと一緒に始められたのでしたね。
秀子 そうです。
小川 巌さんの性格からして、そういった客商売を始められるということについて秀子さんはどう思いました?
秀子 巌は性格からして客商売はぜんぜんあっていなかったと思います。ただ嫁さんがそうした商売をやっていたというので、任せられるのかなと思っていたんです。
小川 どういうところから、客商売に向いていないと思ったのですか?
秀子 そういう性格ではなかったんです。話もうまいほうでもなし、口もうまいほうでもなし(笑)。私はとても無理じゃないかと思いましたね。
小川 ある本で読んだのですが、巌さんをバックアップしてくれた方がいて、お店を持たせてくれたということでしたよね?
秀子 そうです。だけど結局失敗してしまったんです。
小川 それでそのあと、事件が起きたこがね味噌に入社したのですね?
秀子 そうです。
小川 このこがね味噌は清水市にありましたから、会社での袴田さんというのは、ご覧になっているわけではないのですね。
秀子 そうですね、私は当時浜松に住んでましたから。
小川 ただ、ご両親は浜松市の北の浜北市にお住まいだったわけですね?
秀子 はい、そうです。
小川 巌さんはそのときには子供さんがいらしたのですか?
秀子 いました。でも嫁さんとはすでに離婚していて、子供を浜北市の両親のところに預けていたんです。
小川 浜北には巌さんはよく帰ってきていたんですか?
秀子 ええ、子供がいるもんですから、毎週土曜日の夕方とか、どうしても帰れないときには日曜日には必ず帰ってきましたね。
小川 子供さんは当時いくつくらいでしたか?
秀子 2〜3歳くらいですね。
小川 巌さんの子供に対する接し方というのは、どんな風にご覧になっていましたか?
秀子 とてもかわいがっていて、お風呂に一緒に入ったり、べたべたしていたって感じですね。
小川 非常に子煩悩だった?
秀子 そうですね、子煩悩でしたね。
小川 こがね味噌の関係者、特に被害者となった専務との関係について何かお聞きになったことはありますか?
秀子 とってもかわいがってもらって、たまに小遣いももらっていたというようなことを聞いております。
小川 そうやって巌さんがかわいがってもらっていたということで、逆にご両親が橋本さんにお返しをしていたとか。
秀子 ええ、田舎のことですので、当時浜北の名物だったにんじんとごんぼう(ごぼう)なんかを送ったとか言っていました。
小川 巌さんの性格について改めて伺いますが、ボクサーであったことを武器に、人に対して威圧的であるとか、あるいは脅したりとか、そういう振る舞いをすることはなかったですか?
秀子 そんなことは全然ありません。ボクシング始めたときに身分証明書みたいなものを私に見せましてね、「この身分証明書はけんかを売られたら相手に見せて、それでも相手になるというんだったら仕方がないからけんかをするけれど、そうでなかったらけんかをしたらいけないんだよ」って、私が聞かないでも巌は説明してくれたものです。
小川 なるほど、そういう形でけんかは努めてしないようにしていたということですか。
秀子 はい、そうです。
2 事件発生から逮捕まで
小川 昭和41年6月30日に、清水のこがね味噌の専務宅で4人が殺害され放火されるという事件が起きるわけですけれど、巌さんはその当時こがね味噌にお勤めで、現場近くの工場の2階の寮にお住まいになっていたんですね?
秀子 はい、そうです。
小川 先ほどのお話ですと、子供さんに会いに毎週帰ってきていたんですよね。
秀子 ええ、ほぼ毎週帰ってきていました。
小川 事件直後の土曜日にもやはり帰ってきた。
秀子 はい、帰ってきました。
小川 そのときは、秀子さんはお会いになっていますか?
秀子 ええ、ちょうど(7月)4日か5日の日にみんな集まるから帰って来いと、(浜北市)中瀬の母から電話がありましたから、それで帰りました。
小川 事件直後、最初に巌さんに会われたとき、どんな様子でした?
秀子 あんな事件があったあとですからね、何か事件に巻き込まれていたんじゃ困るから、と思い心配していたんです。それで私が車で帰りましたら、ちょうど巌がうちのすぐそばで、近所の人とニコッと笑って話をしているのを見かけたんです。そのときにあの様子なら大丈夫だ、安心だ、と思ったんです。
小川 事件の前と変わりなく、近所の人とも笑いながら話をしていたということですね。
秀子 そうです。
小川 ただ新聞報道を見ますと、6月30日に事件が発生して、すでに7月のはじめには巌さんが犯人であるかのような報道がされたことがありますよね。
秀子 ええ、「H」というように報道されて。
小川 ここに毎日新聞の7月4日の記事がありますけれども、『従業員「H」浮かぶ。血染めのシャツ発見』ということで、この事件の犯人が、あたかも巌さんであるかのような報道がされましたよね。
秀子 そうですね。
小川 これは秀子さんもご覧になりました?
秀子 はい、みました。
小川 これを見てご家族、あるいは秀子さんはどういう反応をしましたか?
秀子 浜北出身なんて書いてありましたから、「H」なんていったら袴田巌のことですからね。もうびっくりしましてね、すぐに浜北の実家に帰りました。
小川 その実家に帰ったときにはまだ巌さんは帰ってなくて、ご家族だけだったのですね。
秀子 はい、そうです。
小川 ご家族はどういう反応をしていましたか?
秀子 まあ心配で、テレビにかじりついてみんなで見てましたね。
小川 そのあと巌さんは土曜日になって実家に帰ってきたわけですね。
秀子 はい。
小川 それで巌さんに事件のことを聞いたのですか?
秀子 そうですね。「どういう事件だった?」なんて聞いてみたりしたんですけれど、「強盗殺人事件のようだけど、俺もよくわからない」とか言ってましたね。
小川 新聞報道で、巌さんが犯人ではないかというような記事をご覧になったあと、巌さんのそのときの様子を見て、心配になったということはないですか?
秀子 私たちは、もしも巌が犯人なら、4人もの人間を殺して一週間もたたないうちに帰ってきて、普通でいれるわけがないと思っていたんですね。それで巌の様子もいろいろ見ていたけれど、ぜんぜんいつもと変わらない、ということで、安心してたんです。
小川 子供さんとの関係もいつもと同じでした?
秀子 そうですね、同じでしたね。
小川 そうやって安心していたのは、秀子さんだけではなくてご家族みんながでしたか?
秀子 はい、そうです。まさか巌がやったなんて、誰も思いませんでした。
小川 その後、巌さんが8月に逮捕されたときのことで、何か覚えていることはありますか?
秀子 警察の家宅捜査が私のところや、兄弟みんなのところにも来まして、礼状を見たら"強盗殺人犯袴田巌"って書いてあるんですよ。3人の刑事が来てそれを見せて、6畳一間のアパートの部屋の中をいろいろ探したんです。だけどせいぜいたんすとサイドボードぐらいしかない部屋でしたから、以前巌が持ってきていたお味噌だけを持っていきましたね。
小川 押収していったということですか?
秀子 はい。そのほかには何も持っていかなかったですね。まあ、持っていくものなんてありませんからね。
小川 秀子さんのところにも警察が逮捕の当日に捜索に来たということですか?
秀子 来たんです。
小川 ほかのご兄弟のところにはどうだったんですか?
秀子 富士に住んでいた一番上の姉のところにも来ました。父は病気で寝てましたので調べられなかったけれど、浜北の母と兄が、やはり家宅捜索を受けました。
小川 そうすると、お兄さんが一緒にお住まいになっていたご実家と、ご兄弟のところに捜索が入って、それで逮捕したということになるわけですか?
秀子 そうですね。何か探していたようですね。
小川 当然ですけどびっくりしましたよね。
秀子 ただ私はポケっとしちゃって、ほんとになんだろなと思って。6畳一間の部屋ですから、家宅捜査だって知れてるんですよ。ほんの30分かそこらじゃないのかな。それから浜松の中央警察署へ連れて行かれて、調べられたんですね。
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| 村崎修弁護士 | 小川秀世弁護士 |
3 逮捕されて
村崎修弁護士(以下 村崎)
逮捕されたあと、どういう取調べを受けたのかをお尋ねしたいのですが、秀子さんは巌さんが逮捕された直後、何回ぐらい面会されましたか?
秀子 静岡で2回しました。
村崎 そのとき巌さんはどんな様子でしたか?
秀子 私のほうでは、「みんなそれぞれ仕事に戻って落ち着いている。伊達に兄弟がいるわけではないから、頑張っていこうね」って言ったことを覚えています。巌は、M
さん(仮名)って方のところに、「名前が出てしまったから謝りに行ってくれ」と私に言いました。
村崎 Mさんというのは、巌さんが盗んだお金を送った女性とされた方ですね。
秀子 そうですね。
村崎 巌さんは逮捕されて間もなくというときなのに、その方が新聞に名前が出て迷惑をかけたからと気を使って謝ってくれと?
秀子 はい。きっと巌は"暖流"を始めた頃、私がお店に少し顔を出していたものですから、清水の彼女の家を知っているだろうということでそう言ったんだと思います。
村崎 繰り返しお聞きしますが、逮捕されても巌さんは無実であると確信をお持ちだったわけですよね。
秀子 はい。
村崎 巌さんは面会のときもご家族に対して、一貫して無実だということを言い続けていたんですか?
秀子 そうです。
村崎 巌さんは実際に警察から、どういう取り調べ、どんな拷問にあったとかお話されましたか?
秀子 静岡にいるときは話さなかったのですが、東京拘置所に来てからはいろいろ話してくれました。印象に残っているものでは、真ん中が凸状に出っ張っている木製の丸いすに腰掛けさせられて、調べられたって言っていました。
村崎 そういった巌さんの話を聞いて、秀子さんは取り調べの状況についてどんな認識を持っていましたか?
秀子 浜松では二俣事件という冤罪事件もありましたので、拷問することぐらい何でもないだろうということを薄々知っていましたが、それでもまさか今の時代にはやらないだろうとも思っていました。だけど巌の話を聞いて、やっぱり拷問ってあるんだなと思いました。
村崎 秀子さんは当時も、警察による自白の強要や拷問があり得るという認識を持っていたんですね。
秀子 はい、二俣事件は実家の中瀬からほんの30分ぐらいで起こった事件でしたから、どれだけひどい目にあって自白させられたかってことは承知していました。
小川 二俣事件については、私も警察による拷問を告発した方に会ってお話を聞きましたので、よく承知しているのですが、二俣事件と同じようなことが、巌さんの場合にも十分ありうると当時から思っていたわけですね。
秀子 そうです。
村崎 先ほど、巌さんが逮捕された日に秀子さんやご兄弟も家宅捜索を受けたと話されましたが、そのとき警察は何を捜していたのか、もう一度お話願いませんか?
秀子 兄のところで警察が「おふくろさんが何か預けたって言っていたけれど、それはどこにやった」って言っていたそうです。
村崎 具体的に何を預けたと言っていたんですか?
秀子 具体的には何かよくわからず、ただ何か預けたろうって。兄は「私は何も預かってません」ときちんと言ったと話してました。
村崎 そうすると、本当に的外れというしかない捜査だったのですね。ところで、巌さんの犯行の動機について、子供さんと一緒に暮らすための金が目当てだったということが調書に出てくるのですが、その点の経過についてご存知のとことがありますか?
秀子 私と母が中瀬の交番に呼ばれまして、確か松本という刑事だった思いますが、いろいろ聞かれたんです。周りではみんな巌がやったって言うもんだから、「本当に巌が犯人なら、アパートの金がほしくてやったのかねえ」って、私が母に愚痴をこぼしたんです。そうしたら刑事が「何だって」って首を伸ばしてくるもんだから、「いやあ、みんなが巌が犯人だっていうもんだから、ひょっとしてやったのかなと思ってそう言っただけだよ」と話して、そのときは終わったんです。そうしたらあとになって、巌がアパートの金がほしくて強盗に入ったと自供したっていうもんで、私はびっくりして、その当時の斉藤弁護士に、「実はあれは巌が言ったんじゃなくて、私が警察に言ったんだ」って(笑)。
村崎 そんなことがあったんですか。警察としては、何か都合のいい話があればつまみ食いしてストーリーをでっち上げるしかなかったわけですね。
4 初公判から死刑判決まで
小川 巌さんが逮捕され、犯行を自供し起訴されたわけですが、秀子さんは裁判の傍聴には行かれていたんですか。
秀子 一審の静岡地裁の時は行かなくて、東京の二審の時から行きました
小川 一審の時にはご家族の中で傍聴をされていた方はいらっしゃるんですか。
秀子 母と兄が行っていました。
小川 事件から1年2ヶ月経った昭和42年8月31日に、袴田さんを有罪にした一番重要な証拠とされている5点の衣類が、味噌工場の味噌タンクの中から発見されたわけですね。それに血がついていて、その血染めの衣類が、結局袴田さんのものだという風に判断されて、有罪判決に至ったのですが、この5点の衣類が発見されたということは、秀子さんはどういう形でお聞きになりましたか?
秀子 その当時、私は新聞もテレビもぜんぜん見ていませんでした。そうしたら中瀬の母から、警察が私の居場所を調べていて、話が聞きたいと言っていると連絡があったんです。それで警察と会ったところで、衣類が出てきたということを聞きました。
小川 秀子さんのところに警察が訪ねてきたわけですか。
秀子 はい、そうです。
小川 何を聞きに来たのですか。
秀子 衣類で何か巌に買ってやったものがあるかって聞きに来ました。だからそのときに、バーコートは一度買ってやったことはあるけれど、あとは別れた嫁さんでなければわからないよ、と言ったんです。
小川 警察は発見された衣類が、巌さんのものかどうかをそうやってご家族に確認しに来たということですね。
秀子 そうだと思います。
小川 5点の衣類の中で、巌さんのものだということを最も印象付けたのは、緑色のブリーフですよね。
秀子 はい。
小川 5点の衣類が出てきてから、ご家族の中でいろんなやり取りがあったと聞いていますが?
秀子 ええ、巌がはいていた緑色のパンツは、母親が送ったものなんです。母親が清水屋という洋品店で買って、巌に送ってやったものだと言ってました。それで警察がタンクから出てきた緑色のパンツを持ってきて、「これは袴田のものではないのか」と言って見せに来たんです。そのとき母親は、色は似ているけれどよくわからんって答えたそうです。ただ、自分が巌に買ってやった緑色のパンツは清水屋で買ったんだと言ったら、警察が早速聞き込みに行ったようで、お店の人がそれを見たけれど、どうもうちのと違うようだって答えたそうなんです。そうしたら警察が、「袴田のお袋がこれに間違いないって言っるんだから、そうだって言ってくれ」って言ったんだと。警察がそう言ってたって、清水屋の人が後になって教えてくれました。
小川 緑のブリーフといっても素人目には、同じかどうかわからないですよね。
秀子 そうです。
小川 何気なくお母さんが似ていると言った言葉を、清水屋さんに警察が伝えて、調書では清水屋さんも認めた形になってしまったという流れですか。
秀子 そうです。
小川 そうして、清水屋で買った緑色のブリーフと、タンクから出てきたものとは同一であると警察は考えたわけですが、それとは違う話も出てきたわけですよね。
秀子 はい。
小川 それはどういう形で出てきたんですか?
秀子 ある日母親から久しぶりに明るい声で電話がかかってきて、「秀子、緑のパンツ出てきたよ、弁護士さんにすぐ連絡して」って言うんです。事件以来ずーっと落ち込んでましたから、本当に久しぶりに母親の明るい声を聞きました。
小川 それはいつごろのことですか。
秀子 5点の衣類が見つかってまもなくですね。だからすぐに斉藤弁護士のところに連絡したんです。
小川 それは、どういう形で見つかったんですか。
秀子 2番目の兄が、浜北に帰って来た時、巌に何か差し入れするものがあったら持って帰ると言ったんです。何でも差し入れできると思って、たくさん荷物を持って帰ったんですが、静岡に行ったら斉藤弁護士から「こんなにたくさん差し入れはできない」と言われて、ほとんどの荷物は自分が住んでいた寮のたんすにしまってあったんです。それが1年経って、翌年田舎に帰って来た時に、当然巌の話になったのですが、緑色のパンツが話題になったときに、その兄が、「なんだ、そのパンツは俺のところにあるよ」と言ったそうなんです。「去年俺が持っていって差し入れしようと思ったが、入らなかったから、今も俺んところにあるぜ」って言ったものだから、母親が喜んで、すぐに私のところに電話してよこしたんです。
小川 巌さんの緑のブリーフは実は、お兄さんが保管をしてたということなんですね。
秀子 そうなんです。
小川 緑のブリーフをお兄さんが持っているということは、当然タンクから出てきたパンツは別物だということですから、ご家族はすごく喜んで、無罪を確信したわけですね。
秀子 そうですね。
小川 それで実際に弁護士さんのところに現物を持っていき、それが証拠として提出されたわけですね。
秀子 そうです。
小川 ただ裁判では最後まで、お兄さんが提出したブリーフというのは巌さんのものではないと判断されてしまいましたよね。
秀子 そうですね。
小川 高裁の判決の時には秀子さんは法廷に行かれたんですか。
秀子 はい、行きました。
小川 そうすると判決をずっとお聞きになっていたわけですね。
秀子 はい。そうしたら裁判官から「母親も兄もうそをついている」といわれて…。死刑確定のあと兄はがっかりして「俺は何もうそなんか言ってもせんのに…」と言ったのを覚えています。
小川 お兄さんは相当落ち込んでいましたか。
秀子 はい。兄二人はがっくりして、座り込んでいましたしね。それで私は判決が出て、巌が退廷するときにこっちに歩いてきたものだから、急いで下に下りていって、じっと姿を見つめていました。
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5 死刑判決が出て再審請求まで
村崎 その後最高裁に上告しましたが、1980年11月19日、今から21年前に上告が棄却されましたね。
秀子 はい。
村崎 そして翌1981年4月20日、巌さんは自ら再審請求を起こしたわけですが、再審請求から今日までの秀子さんのかかわりについてお聞かせください。まず死刑が確定したとき、秀子さんとしてはどういう気持ちになりましたか?
秀子 とにかくここまで来たからには、やることを全てやろうと巌には言いましたね。それで日弁連の人権委員会へ救済の申し込みに行きました。兄と二人で巌が書いたものをもってお願いにあがりました。
村崎 巌さん自ら書いたわけですね。
秀子 はい、そうです。
村崎 今私の手元には、彼が最高裁に上告するにあたって、自らしたためた上告趣意書があるのですが、これがすばらしい書面で、85ページにわたって、字が乱れることなく、非常に論理的に書かれています。これと同じように再審申立書も彼が自ら筆をとって書かれ、それをご兄弟がもって日弁連に行かれたということですね。
秀子 はい。
村崎 それで日弁連の結果はどうなったのですか。
秀子 半年位してから救済をするということで、日弁連が関わってくれるようになりました。
村崎 この件については袴田さんが自ら書いたものが心を動かして、日弁連としても放っておけないということで、申し立てされてすぐに再審の援護体制を取ったのだろうと思います。そして1981年から再審の今日まで、秀子さんの具体的なかかわりについて尋ねますが、今も面会には行かれているんですよね?
秀子 はい。去年の11月と12月に行きましたけれど、面会できませんでした。できれば3月中にまた行きたいと思っています。
村崎 再審を申し立てたあとの秀子さんの活動は、再審前と比べて変化はありましたか。
秀子 以前は私自身、法律関係の難しいことはわかりませんから、面会するくらいが自分にできる精一杯のことだと思い、月に1回は面会に行っていました。
村崎 そのころは巌さんも面会に出てこられて、お話もされていたんですよね。
秀子 そうです。死刑が確定してから、ものすごくおとなしくなっちゃって…。以前なんか、私たちが行っても口の挟む余地のないほど一生懸命話をして、私たちはただ「うんうん」とうなづくだけで、外に出てから、巌が元気でよかったね、って兄弟で慰め合って帰ってきたって感じだったんです。ところが死刑が確定してから、おとなしくなったというか、静かになったというか、「ひどいところにいるよ」って初めて泣き言みたいなことを言いましたね。
村崎 死刑囚になると拘置されるところがわずか2畳の部屋で、小さい窓がある独房になってしまう。それまでの未決時とは違う場所に移されてしまったのですね。
秀子 そうですね。
村崎 秀子さん自身は巌さんのそういう態度をご覧になって、どう対応されてきましたか?
秀子 ともかく私が元気でがんばるしかないと思い、面会に行っても巌がニコリともしないでいるから、なるべく笑わせようと思って、私は努めて笑って面会しました。そうしたら巌もニコって笑ってくれて。元気になってくれなきゃしょうがないと思って、そういうことをいたしましたね。
村崎 再審申立てをしていても、いつでも死刑執行はありえるわけですものね。その辺の恐怖感というのはどういう風に感ていましたか?
秀子 いつ何時処刑されるかわからんというのは確かにありました。だけどまだ再審請求中だから大丈夫だろうって信じていました。
村崎 秀子さんも本当につらい中がんばっていらっしゃるわけですが、これまでにくじけたことはないですか。
秀子 前は一人きりになるとどうしようもなくて、夜中に眠れなくてずいぶんとお酒をあおっていました。それでちょっとアル中みたいになってしまって、肌なんか荒壁を塗ったみたいにガサガサしてしまいましてね。大変ひどい目にあいました。だけど支援の方も少しづつ出てきてくれましたし、いろいろ応援してくれるようになりましたから、私も「こんなことしちゃおれん」と思いまして、それからはお酒は一切やめましてがんばっています。
村崎 その"がんばる"原動力というのは何なんでしょうか?
秀子 やはり支援してくださる皆さんがいらっしゃるということ、たとえ2人でも3人でもいいから、わかってくれる皆さんがいるということが、私の原動力になっております。
村崎 今、ボクシング界においても大きなうねりが起こっていますが、秀子さん自身、最近になって何か変化を感じることはありますか。
秀子 昔からよく知っている私の友達でも、巌の事件をあまり話さなかった人たちが、このごろでは向こうから声をかけてくれて、「弟さんのこと心配だね」とか、「がんばっていきなよ」「陣中見舞いに行こうと思っている」といって声をかけてくれるんです。実際には活動ができなくても、私を知っているということでそう声をかけてくださるものですから、ありがたいことだと思っております。
小川 秀子さんの今日のお話の中から、支援というものがこうした冤罪事件でいかに大切かということを改めて考えさせられると同時に、われわれ弁護活動の中でも、いろいろこれからの活動のヒントになる話をお聞かせいただけたと思います。
どうも秀子さんありがとうございました。■