連載 その1
『明日を拓く』62・63号
(東日本部落解放研究所編)より
求める会代表 平野 雄三
東日本部落解放研究所『明日を拓く』62・63号は『狭山事件・冤罪事件と裁判の動向』と題し、狭山・袴田・名張をはじめとした各冤罪・再審請求事件の現状を特集で掲載した。このうち袴田事件については、本会代表の平野雄三の長文のレポートが掲載された。その全文を三回にわたり再掲する。
はじめに
今から十年前、静岡地裁で再審請求が棄却された後に、本誌(明日を拓く/九号/一九九五年三月三〇日発行)に「再審の扉をともにあけよう/袴田事件の再審棄却に抗議する」と題する小文を書かせていただいたことがあった。今回も東京高裁で昨年(二〇〇四年)、再審請求(即時抗告)が棄却されたことから、東京高裁の「棄却決定批判」という、同様の趣旨で執筆を依頼された。与えて下さった好機を生かして、自分なりの力を最大限に発揮して、ご要望に応えたいと思う。
ここ一〜ニカ月の間、東京高裁の「棄却決定批判」という主題で各地から呼ばれて話をすると、袴田事件のことを、とてもよく理解していると思われる方々から、意外というべきか、ごく当たり前のことというべきか、「棄却決定批判」という主題に入る前に、袴田巌さんが警察から「なぜ犯人と目星を付けられたのか」「なぜ逮捕されたのか」「やってもいないのに、なぜ虚偽の自白をしたのか」という質問攻めに遭遇した。簡単な説明だけで切り抜けようとしても理解が得られず、これらの説明に二〜三時間も要する有り様で、「棄却決定批判」という主題には、なかなか辿り着けないことが続いた。
この教訓を生かして、冒頭に述べたように、十年前に本誌に袴田事件に関して書かせていただいたが、基本的な事柄は重複を恐れずに述べることを、お許しいただきたい。
袴田事件とは
一九六六年(昭和四一年)六月三〇日未明、静岡県清水市(現静岡市清水区)横砂で、味噌製造販売会社の専務一家四人が殺された後に放火された、強盗・放火・殺人事件が起こった。この味噌会社の住み込み従業員であった袴田巌さんが犯人として逮捕され、一九八○年に死刑が確定したことから、後年に「袴田事件」と呼ばれるようになった。
しかしこの呼称では、少なからぬ誤解が生じると思う。なぜなら、犯人とされた袴田巌さんは自ら、無実を主張して再審請求をしている。支援者の一人として、この事件の裁判記録を読めば読む程、証拠を調査すればする程、無実が明らかになって来て、袴田巌さんを、真犯人とはとても思えないのだから、「袴田事件」という事件名は相応しくないと思っている。
当然、事件発生の当初は別名で呼ばれていた。例えば新聞の報道では「味噌工場専務一家強盗殺人放火事件」とか、静岡県警本部の捜査記録の標題には「清水市横砂、会社重役宅一家四名殺害の強盗殺人放火事件」と、名付けられていた。地元清水市在住の袴田巌さんの支援者は、被害者の専務が経営していた味噌会社の商号から「清水こがね味噌事件」と呼んでいた。
私も「清水こがね味噌事件」とか、事件現場の地名から「清水市横砂事件」などと呼ぶのが妥当だと思う。
敢えて「袴田事件」と言うのであれば、「袴田巌さんが犯人にデッチ上げられて、冤罪を主張し続けていながら死刑が確定し、再審を請求している事件」と言うべきであろう。
読者の皆様は「狭山事件」のことを、ご存知だと思うが、事件発生の地名・狭山市から当然のこととして「狭山事件」と呼んでいるのに、仮に石川一雄さんの名前から「石川事件」と呼称するとしたら、とても奇妙な表現になることがお分かりいただけると思う。
しかし現在では「袴田事件」という呼称で、世の中に知られて通用しているので、ここでは「袴田事件」と呼んで扱うことにする。
事件発生の状況
一九六六年(昭和四一年)六月三〇日未明、静岡県清水市(現静岡市清水区)東端の町・横砂で、味噌の製造販売会社の専務宅から出火し、全焼した現場から、刃物による多数の傷(四人で四十数ヵ所)を受けた一家四人(専務、妻、次女、長男)の焼死体が発見された。
事件現場は、JR(旧国鉄)東海道本線の線路脇の家屋であり、六月三〇日未明の午前一時過ぎに、現場付近を通過しようとしていた貨物列車の運転手が、火災を発見して急停車して通報したことから、事件の発生が判明した。
殺された被害者四人の遺体には、刃物と思われる複数の凶器を使った創傷が併せて四十数カ所もあった。
被害者宅とは一メートル程度の間隔で隣接する両隣の住人は、火事が起きて大騒ぎになるまで、「被害者宅から、助けを求めるような悲鳴や、誰かと争うような大声や物音など、何も聞こえてこなかった」と証言した。
火災の発見時間が午前一時過ぎだったことから、四人の殺害はこの時間の少し前ということにされたが、実際はもっと早い時間帯に行われたのではないかと、次の事柄から推測できる。後述するが、もっと早い時間帯の犯行であれば、袴田巌さんのアリバイが証明できる。
被害者四人の服装は、両親はそれぞれが腕時計をしたままであったり、長男はワイシャツ姿でその胸ポケットにはシャープペンシルが入っていて、次女はブラジャーを着けたままだったり、しかも室内には蚊帳を釣る準備がしてあったが、釣った形跡がなく、就寝時の習慣にもよるが、一般的にはとても就寝している状態ではなかった。
火災現場の台所には、日常的に使っていた家庭用の包丁が一本も残されていなかったり、電話機がコードごと引きちぎられて、土間に放り出されていた電話機に付着していたはずの指紋や血痕、血液型の採取、電話機がコードごと引きちぎられた理由、複数犯などに関して、捜査したのか否か、その結果も含めて、公式発表は一切なかった。これらに関する捜査報告書の存否すら不明なのは、疑問を感じる。しかも、袴田犯人説を確立させるためには、大々的に意図的にリークした警察が、この件では、何もリークしなかったのは、何らかの恣意的なものを感じる。
それでも、事件直後の捜査から、上記の状況から犯人は複数であり、被害者宅にあった多額の現金、預金通帳、有価証券がほぼそのまま残されていたことや、被害者が受けた傷の多さなどから怨恨による事件と見るのが、一般的であったが、真犯人に結付くような物的な証拠がなかった。あるいは怨恨説を決定づける物的な証拠が「あった」のだが、何らかの理由で開示できなかったのかも知れない。一方で、内部犯行説との見方も一部にあった。
怨恨説はなぜ消えたのか
前述のように、他の多くの怨恨事件に類似していることから、この事件も当然、怨恨説が有力であったと思われる。警察のリーク情報も加味されてのことだが、事件直後の新聞報道も怨恨説が有力だった。
当時、被害者の専務が経営していた味噌会社は、味噌製造の新技術の導入に成功し、静岡県内でも三本の指に数えられ、手広く商売をしていた。味噌の製造は、原料となる大豆の輸入枠をどこまで確保できるのかが、勝負どころであった。大豆の輸入は今と違い、自由ではなく、各企業に割り当てられる輸入量は、地元や中央の政治家を使った政治力が左右し、同業者との闘いの結果で決まるものであった。つまり各企業の割当量(輸入枠)は、最終的には国家の役所が決める利権である。昨今の牛肉の輸入問題に、当時の大豆と同様の現象が見られる。
この状況を地元の警察や関係者は、皆よく知っていた。表面にはなかなか出て来ないが、利権が絡めば被害者の専務と政治家や役人との間に、何らかの贈収賄の臭いがすることは、誰もが薄々、感じていた。時には暴力団までもが登場する場面さえある。
被害者の専務は羽振りがよく、特権階級でなければなかなか持てない、外国車や自家用モーターボートを所持して、これを使ってよく遊びに出掛けたようだ。
また、清水市内には愛人がいた。この愛人が経営する中華飲食店に、殺された息子に連れられて友人が食べに行ったことが何回かあったが、いつも料金を取らなかったとの証言もある。当時、週刊誌上でステッキガールとして騒がれた、風俗関係では有名な浜松市(同じ静岡県内だが清水市から西に九〇キロメートルも離れていた)まで、外車に乗ってよく風俗遊びに出掛けた。
地元・清水市内の暴力団が主催する賭博場にも、度々出入りしていたとの情報もあった。
政治家と利権、暴力団と風俗関係、賭博、と挙げれば、この裏で被害者の専務と連なる何かが存在するのでは?と考えても不思議ではない。そして、この人たちとの関係性が、例えば金銭的な問題や女性関係などで、少しでもバランスが崩れて、解決でき(手打ち)なければ抗争に発展するのは、この世界ではよくあることだ。
以上に挙げた事柄は、被害者を知る上の一側面に過ぎないが、これだけの情報でも「袴田事件」が、怨恨によるものと考えるのは当然であろう。
それが事件発生からたった三日経ただけで、有力だった怨恨説から内部犯行説へと、捜査方針が切り替わった。なぜか。推測の域を出ないが、事件直後の初期の捜査段階で、真犯人像が、地元の警察上層部との関係がある政治家か暴力団(あるいはその両方)に到達してしまい、警察上層部の政治的な判断が働いて、方針転換したのではないかと考えている。しかし、確証を得ているわけではない。
この原因を、私を含めた多くの支援者や先輩が研究してきたが、結論は得られていない。弁護団の中には「事件のアナザーストーリーとしての真犯人像を示唆できれば、再審の道が拓かれ易い」との考え方があり、私もなかなか捨て難いと思っている。
この「事件のアナザーストーリーとしての真犯人像」を探すことは、多いに興味が湧いて「事実は小説より奇なり」と言う如く、とても面白いと思う反面、多くの力をここに割かねばならず、真犯人像が見つからない限り、本来の目的である再審開始には直結せず、徒労に終わる可能性が大きい。その上、地元の支援者の間では、暴力団が事件に関与した可能性が高い(根拠を否定しきれない)との判断から、深入りすると報復に会うかも知れないとの判断から自己防衛本能が働き、この活動には今迄、禁欲して自らの手足を縛って来た。しかし、東京高裁から再審請求が棄却されて、しかも来年は事件発生から四〇年になる今こそ、事件当時の関係者が次々と他界されている中で、結果はどうあれ、関係者の存命中に早急に取り掛かる必要性を感じている。地元の支援者の協力なしには手を付けられないので、先ずその準備から着手したい。
なぜ袴田巌さんが逮捕されたのか
袴田巌さんは、事件当時三〇歳、健康を害して既に。プロボクサーを引退、この味噌会社の従業員として、東海道本線を隔てた現場と反対側に建つ、味噌製造工場の二階に設けられた従業員寮に住み込んで働いていた。
初期の捜査が難航しているなかで、殺された専務は体格が良くて柔道二段であり、この猛者を襲えるのは、元プロボクサー(全日本フェザー級六位)の袴田巌さんなら可能だと思われた。事件後、左手中指を負傷していた(実際は消火作業でケガをした)。アリバイがなかった。現在の捜査技術では、死後硬直や胃の中の残留物の状態などから、ある確度で死亡時間を特定できるが、当時はこの重要な捜査を充分にやっていない。午前一時の時点は一人で寝ていたのでアリバイの証明は困難だった。前夜一〇時半頃ならアリバイを証明できる。以上のことなどから、犯人として目星を付けられたのは、事件から四日後の七月四日であった。
当日、警察は袴田さんの部屋にあった袴田さんのパジャマを任意提出させた。これは後に判明したことだが、このパジャマには肉眼では判明できない程の極少量の血痕(袴田さんと同じB型)が付着していた。それを警察はマスコミに対して「血染めのパジャマ」とリークして、大々的に報道させた。ある新聞は、味噌会社の従業員「H」が怪しいと、近隣の人が読めば、明らかに「袴田さんが犯人かも知れない」と分かるように書いた。
さらに午前中に近くの病院に行かせて、静岡県警から委嘱された監察医を立ち会わせ、負傷していた左手中指の治療を受けさせて、傷の様子を監察医に確認させた。その後、味噌会社近くの交番に『参考人』として呼び出し、『任意』の取り調べを真夜中まで『強制』した。袴田巌さんは否認し続けたので、逮捕する決め手がなく放免された。
つまりこの時点では、殆ど血痕の付着がない袴田さんのパジャマを「血染めのパジャマ」と言って、大々的に報道させながら、これを有力な物的証拠と断定するのが難しかったし、袴田さんと結び付く物的証拠は皆無であった。様々な物的証拠が袴田さんと結び付けられるようになるのは、九月九日に起訴された後である。逮捕前・起訴前に袴田さんと結び付く「物的証拠まがい」は、この「パジャマ」だけである。そして、袴田さんから事件に関与する自白が何も得られなかったので、逮捕できなかったのであろう。
しかし、この日から警察は袴田巌さんに尾行をつけて、二四時間の行動を監視した。近くの簡易食堂で職場の同僚とビールを飲めば、どんな会話をしていたのかと聞き込み、支払った金額と金員まで記録し、支払った紙幣をその店から回収して、血痕や指紋の付着の有無まで、逮捕するまで連日、調査し続けた。それでも、袴田さんを「被疑者」として逮捕する決め手・証拠が得られなかった。
決め手がないまま、被害者一家の「四十九日」の法要に合わせて、八月一八日、袴田巌さんを強引に逮捕した。「血痕の付着が殆どない『血染めのパジャマ』」以外に物的証拠がないので、身柄を代用監獄に押し込んで、無理やり「自白」させるのが最大の目的であった。警察は「『自白』さえ得られれば犯人と認定できるし、裁判でも有罪に出来る」と「大きな賭けに出た」と思われる。脆弱な物的証拠となる「血染めのパジャマ」を補強するために、報道関係者に「袴田犯人説」を報道してもらうべく、警察は袴田さんの取り調べの過程を様々にリークした。 例えば、「呼び捨て報道」はもちろんのこと、「逮捕=真犯人」視して、連日、逮捕時の袴田さんの顔写真を掲載して、扇動的に書き立てた。自白しないことを「だんまり戦術」と批判させたり、「(被害者の)葬儀の日も高笑い−"ジキル"と"ハイド"の袴田」なとど椰楡させた。
逮捕日を「四十九日」に合わせたのは、「四十九日」を過ぎても警察の捜査が何も進んでいない、との世間からの批判をかわすためであろう。被害者の「初七日」とか「四十九日」に合わせて容疑者を逮捕する手口は、世間の情緒的な感情をクスグる警察の典型的な常套手段の一つである。(続く)■
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